メタリック・シルバー

「大人」って生き物が自分となんら変わりなく悩んだり失敗したり恥をかいたりしてモガキながら生きている生物であるという事実を知った当初に感じた衝撃が風化しそのことがもはや自分にとって常識となったのはいつ頃だっただろうか。父と酒の席を共にするようになった頃には既に自明の理であったような気がする。
「大人になる」とはすなわち世の中という何か得体のしれない力が一体これからどこに向かうのかもまともに告げないまま駆動しつづけ否応なしに人々に仮面を配り定められた運命に沿って役割を演じることを強制する得体のしれない何かに甘んじてその役割を演じることなのだろうと思う。社会的役割という仮面を一皮むけばそこには俺と何ら変わりのない、傷つきやすくて臆病な、生身の人間が転がっている。
一人にしてくれ放っておいてくれ俺は何もしたくないといっても得体のしれない世の中ってやつとは生きていく上では無関係ではいられないらしく、それならば自由を獲得するためにはその中には自分しか存在し得ないところである己の脳内で自分だけの自由を築きあげるしかないのだろうと考えたところで自分の身体がひどく疲労していることに気がついた。勉強というやつは、一日中椅子に座って使うのは脳味噌だけであるはずなのに身体をいたく緊張させて疲れさせる。家に帰ったら飯だけを食って風呂には入らずベッドに直行しようかと考えたが、止めた。翌日の準備をまともにせずに眠りについても翌日に響くだけであることを心得ているくらいにはこういう疲労のパターンには慣れている。
人っ子一人いない、車もまったく通りがからない交差点にかかった横断歩道を渡り、街灯が一本もないただ家々からのほのかな明かりだけがボウっと道を照らしている細い路地にさしかかったとき、向こう数十メートルくらいのところに三人ほど、道にしゃがみこんだり何事か騒いだりしているのが見えた。酔っぱらいだろうかと思いながら近づくと、それは子供で、暗くなった路地をふざけあいながらどこにいくともなしにフラフラしているのだった。暗くて顔はよく見えないが、声の質、ふざけかたなどからどうも不良ではないらしいことが判ったので幾分安心しながら横を通り過ぎると、後ろから「先生」という声がした。子供三人のほかに周りには人間は俺しかいない。はて、と思いながら5、6歩、足を進めたところで、あぁ!学習塾の生徒か!と合点がいき、振り向いたときには子ども達はもうどこかへ行っていた。母が小さな学習塾を経営していてその手伝いで子ども達に勉強を教えたことが何度かあるのだ。恐らく、その生徒だったのだろう。
それにしても、俺のようなチンピラが「先生」と呼ばれるなんて、なんだかむず痒いなぁと思った。なんだか変な感じがするなぁと。
糸の切れた凧のような生き方をしている俺が、先生、である。
でも、ある程度年齢を経た今だからわかるけど、先生って人たちは、なんだか一癖や二癖あるような人物ばかりだった気がする。だから、俺みたいなのが先生とよばれてもそんなにおかしいことではないのかもしれない。

帰宅する。リビングへいくと、透明で大きなボトルに水がなみなみと注がれニンニクが何十個も浸されていた。これはなにかと母に聞くと、兄が漬けたものらしい。ニンニクの砂糖醤油漬けをつくるそうで、これはその下準備らしい。兄はこのごろ、たまに料理をつくることがある。このあいだは挽き肉を味漬けして炒めたものとアボガドをサイコロ切りにしたやつ、それとちぎったレタスなんかをご飯の上にのせてタコライスなんかを作っていた。かつて「500円も出せば外食でうまい飯が食えるんだから、自炊なんかする必要ない。」と言っていた兄がである。食べログで偉そうに店の批評をすることが趣味なくせにカップ焼きそばにマヨネーズと生卵と七味をぶっこんだものをまともに咀嚼もせずに飲みこむようにして食べる味音痴の兄がである。兄になにがあったのだろうと気になったがそれよりも料理をすることに喜びを見出したらしいことが、なんだか嬉しかった。
キッチンの脇には土がついたままのジャガイモとさつまいもがごろごろとダンボールに入っている。こないだ親戚の畑にいって掘ってきたやつだ。
空港の滑走路脇にある畑に伯父さんの白い軽トラで乗り付ける。鳥よけの空砲が、ぱぁん、と時折鳴り響き、地方の空港らしく737とダッシュエイトがたまに思い出したように舞い降りるなかで畑のあぜにむかってクワを振り下ろした。ザクっと土に鉄の板を突き刺すと、ポンっ、と芋が飛び出る。土の上に飛び出した芋芋をかき集め、発泡スチロールの箱いっぱいに詰め込むと
「どうだぁ、たぁくさん、とれただろう」と言って伯父は目を細めたばこをくゆらした。

生きていると「あぁしろ」「こうしろ」といわれ己の役割をこなすことに汲々とさせられ、あぁ、なんだかもう、あの世に行ってしまいたいと思うこともあるが、こういう、新鮮な”生”に触れると、生きるのも、悪くはないなと感じる。日常生活はイライラさせられることばかりだが、こういう、イライラしようのないくらいピュアな生に触れると、なんだか生気を取り戻すのである。

そういえば、と、なぜだか急に、一ヶ月ほど前に友人といった水族館で見たマグロの泳ぐ姿を思い出した。
マグロの泳ぐのを、「まるで弾丸のようだ」とする表現はよく見かけるもので、下手すると陳腐なまでに使い古された表現だが、そのときはほんとうに、「弾丸のようだ」と思った。
水槽の上からばら撒かれた餌を求めて、ジンベイサメが屹立する。勢い良く飲み込む。おおかた吸い終わったあと、ジンベザメは悠然と泳ぎまわり、おこぼれを他の魚が奪い合う。
マグロも、その中の一匹だった。内面から湧き出る衝動に突き動かされるように、メタリックシルバーの肌を輝かせながら水面近くを弾丸のように直進しているのだ。
狂ったように水面で乱舞するソウダガツオは釣りをしている時に海の上から見たことがあるが、なるほど、水中から見るとこうなっているのかと思った。この水族館に来るのは一度目ではない、その前にもマグロのことは見ていたハズなのに、今回は何故マグロが目についたのだろうと思った。マグロは相変わらずメタリックめいた銀色の肌をギラギラ反射させながら水面近くで乱舞していた。

なんで急にマグロのことを思い出したんだろうと考えてみたが、答えはなんとなくわかっていて、お前は芋やニンニクに対しては純粋な生だなんだとのたまうくせに、お前自身はどうなんだ、迷ってばかりじゃないかともう一人の自分が問いかけ、それで迷うこと無く純粋に生を燃やすマグロを思い出したんだろう。

あのマグロのように迷うこと無く生を燃やすことが出来るようになる日は来るのだろうか。いつか来るかもしれないし一生来ないかもしれない。まぁ、来なかったら来なかったで別に良い。だるいし。
なんとなくマグロに責められているような気がしたけど、構わずに飯を食おうと思った。
この日以来、自分の生ってものに疑問を感じると、マグロのメタリックシルバーの肌と光沢が網膜にちらつくようになった。マグロの生へと至る道は、まだ見つかっていない。