集団と無自覚マッチョイズム

保険の営業マンである伯父が外回りの途中、家に立ち寄った。母と2、3分ほど話をしたあと、帰ろうとしたが、母はまだ話し足りないらしく、伯父を引きとめようとした。伯父は「GPSをつけているのであまり長居は出来ない」と言った。GPSで営業マンの居場所を常時監視出来るシステムが最近導入されたらしい。息苦しくないのだろうか、と思った。いや、息苦しいにちがいないのだ。俺なら耐えられない。

「働く時に、そんな甘ったるいことが通用するか!!」
全くその通りだ。世界は俺を中心に動いているわけではない。伯父だって好きでGPSつけてるわけじゃない。つけた会社側だって「GPSつけたら楽しそう!!」だなんてことではない。伯父は家族を養うためにGPSを身につけ、会社は売り上げを伸ばすためにGPSを配る。


世界は、俺は、得体の知れないが大きい何かに操られているようだと感じることがある。
「俺ね、頭は良くないけど、それでも知ってるんだよね。政治家とか偉い人を動かすのは、利権なんだよ。偉い人は、個人の性格とか志とかとは無関係にさ、そうなっちゃうんだ。」「青柳さんが相手にしているのは、馬鹿でかい抽象的な敵だよ。たぶん、国家とか権力とかよべちゃうようなさ」「詳しく言えば、だれそれ大臣だとか何がし社長だとか、いるのかもしれないけどさ、基本的には、首相を殺したのは、曖昧な思惑だよね。さっきの利権の話と一緒でさ」     伊坂幸太郎 ゴールデンスランバー
集団が大きくなればなるほど、個人1人1人の重さは相対的に軽くなる。集団が大きくなればなるほど、その力は大きくなり、それをコントロールするには1人の思考だけでは不可能になる。そしてたまにとんでもねぇ残酷なことでもやってしまう。

中二病患者の誇大妄想だろうか。ただの妄想陰謀論だろうか。

ただ、人は集団になると気がデカくなり、モノをあんまり深く考えずに行動するようになる傾向があるのは確実らしい。それを外側から見ると、何かに操られているようにみえるのだろう。

集団に所属して、知らない間にとんでもねぇことをして他人を傷つけないか、怖い。あるいはそれを強制されるのが。


力を持っている人はたまに、自分が力を持っていることに無自覚になったり、力を持っていることが当たり前であり、それが人間の務めだと思ったり、弱い立場の人の気持ちを考えられなくなったりする。ここでいう力っていうのは、社会的立場だとか、がむしゃらに頑張れる強靭な身体や精神だとか。力っていうのは、取り扱い注意なんだと思う。そして無自覚な暴力を振るう/振るわれる関係っていうのは、一対一の関係だけじゃなくて、集団対個人でも起こりうる。

そんな無自覚な暴力を振るわれたり、集団に圧殺されそうになったとき、出来るのは逃げることだけだ。

一方で俺も力を持つ側に立つことが今からの人生である筈なので、その時には無自覚な暴力を振るわないように気をつけないとなと思う。
まぁ気がつけないから無自覚なんであって、いくら注意したって糞の役にも立たないんだろうなと思いますが。