サン=テグジュペリ 夜間飛行
時は航空産業黎明期。ライト兄弟が空へ舞い上がった1903年から第一次世界大戦を経てわずか数十年後。航法技術も未だ未発達で頼りになるのはまず何よりパイロットの肉眼であり、おまけ程度のモールス信号送受信機が地上との唯一の命綱であった頃。
もちろん夜間飛行なんて命を顧みない無謀な行為であるし、それを定期便として運行するなんてもってのほか。
しかし主人公航空会社社長これはビジネスチャンスだと郵便輸送夜間定期便を、これは操縦者の命を危険に晒す無謀な行為だという識者知識人からの反発を押し切って、運行開始する。
「昼に稼いだスピードを、夜間に船と鉄道に追い越されるならば、飛行機のインセンティブは無い」
血も涙もないように周囲から見られる社長であったが、内心誰よりも社員らを愛しているという秘かな自負があった。
天候の是非に関わらず出発時刻に遅れた場合はひとつの例外なく地上作業員を罰し、悪天候で飛行を中断した操縦士に冷たい言葉を投げかけ、ミスがあればそれが例え創業当時からの古株整備士であっても情け容赦無くクビを切る。
「私は人を罰しているのではない。彼らの背後から忍び寄る過失を退治しているのだ」
社員には毅然とした態度で相対し決して馴れ合わず、自身に対してはガタのきた老体に鞭に鞭うって事業に邁進する。社長の脳裏には、古い石造りの寺院に隙間隙間に入り込み、しまいには寺院を朽ちさせ破壊するというツタの姿が鮮明に浮かびあがっていた。
社長にとって事業とはこのツタのようなものである。偉大なる生命力をもってしまいには堅牢な建造物をも破壊してしまう生命衝動そのものであり生き物、それが社長にとっての事業であった。いわば社長をふくめた社員全員のは、事業という名の偉大な生命を駆動するための部品であり生贄であった。
しかしある夜一機の飛行機が夜の嵐に巻き込まれ、無線は断絶、機は進路を見失い、地上は安否を巡って右往左往する。騒然となった事務所に現れたのは遭難した操縦士の妻。面談と説明を求められた社長はこれまで自分が拠り所としてきた価値観と全く相容れないいわば家庭的で母性的なエトスの具現者であるうら若き妻を眼前にしてなにを思うか。
宮沢賢治と並べて本棚に置かれることの多い「星の王子様」で有名なサン=テグジュペリはヒューマニズムに溢れたひとというイメージで、どちらかというと世俗の仕事にあくせくする大人を横目に、そんなものよりも大事なことを言って聞かせるイメージだったのですが、そのぶんこの「夜間飛行」には驚きました。
訳者曰く、サン=テグジュペリはこの二面性が魅力的で、「夜間飛行」のあと「闘う飛行士」を経てこの騎士道精神とも呼べる勇気と行動力に満ちた作品が洗練されていき、他方「南方郵便機」から「星の王子様」、「人間の土地」を経てサン=テグジュペリのロマンチシズムで無垢、純粋な作風が確立されていくらしい。
ヒューマニズム溢れた博愛主義者のイメージが強いと先に述べたけれども、実はサン=テグジュペリの作品を読むのはこれが始めてで、「星の王子様」は小耳に挟んだイメージでしか内容を知らない。
それにしてもこの、水と油のような、相容れない価値観、作風はこの人のなかにどうやって共存していたのだろうと思う。人間の内面は、たぶん、俺が思ってるより複雑で、奇怪で、深い。
作品を読み解いていけば、そんな複雑怪奇な人間の内面を、一端だけでも覗き込めるかもしれない。この人の作品を攻略していくのが楽しみになった。
石灰の島
ちゃんとした人だと思った
なんかあのー、散髪代浮かすために自宅でちっちゃい子の髪を切るとき、即席のカバー?こうビニール袋の一部を切り取ったのをアタマから通して子供に被せるじゃないですか。あんなかんじ。で、おっさんのはちゃんと腕のとこも通せるようなってて、ノースリーブのシャツなってた。わりと完成度高い。遠目から見たらゴミ袋って気づかない。サイズもピッタリ。
で、おっさんがそんな服?服じゃないけど、そういうのを着てスーパーに来る文脈というか、どういう事情があってそんな格好で御来店なさるんだ全然検討つかんくて 一瞬思考回路がショートしたんですけど、この手作りの服、そういや見覚えある、これ幼稚園とかのお遊戯会で着るやつだ。
なんかあるじゃないですかお遊戯会で着る手作りの衣装みたいなの、保母さんと一緒になって園児が教育の一環として作るみたいなやつ。そういやちっちゃい頃俺もつけたことあるわそういうの。で、おっさん50くらいの、髪は灰色で肌が浅黒いんだけど割と優しそーな顔つきしてんの。あぁなるほど、この人は園長さんだ、たぶんスーパーの近辺の幼稚園かどっかに勤めててお遊戯会の練習中になにかしら購入すべきもんが出て来たから慌てて買いに来たんだろう。工作に使うガムテープとか。
で、おっさん、つつーっとレジの先にある購入した商品を客自身が詰めるコーナー?があるじゃないっすか。そこに向かってって、そういう場所にはたいていレンジが備え付けられてるじゃないすか、で、レンジのうえにパックの牛乳が置かれてるんすよ。1000mlの。で、おっさんはそれに相対して、牛乳に十文字切って、なにかしらのお祈りをしたのち、その牛乳をラッパ飲みした。
あぁ違うわ。普通にただの頭おかしい人だったわ。なんかスーパーで買った牛乳に常人以上の意味を見出してあげくの果てにスーパーの一角に勝手に聖地を作り上げた人だ。たぶん聖地巡礼のためにスーパーに戻って来たのだろう。
なんかねーこの時に感じた寂寥感は、中1のとき友達ん家に勉強しにいったら、そいつの高校生の兄ちゃんが絡んで来てすげー得意げに三人称単数とかの説明しだしたりして、でも中1なんで素直にすげーって思うじゃないですか、で、年下の子達から滲み出る「この兄ちゃんすげー」みたいな雰囲気をその高校生のにいちゃんは感じ取ってか、さらに饒舌になって先輩風ふかすじゃないですか。「英検も3級だしな」とかいって。で、3年後高校生になって英検3級がいかほどのほのか改めてわかってから、そのにいちゃんのことを「英検3級だしな」の得意げな顔とともに思い出した時の、あの感覚。あれ。
祈り
澱の底
来店するたびにいつも一昔前のポピュラーミュージックが流れている。親が聞いていたような。流れて来る音楽を誰が歌ってるかはほとんど知らないんだけど、知ってるのは松任谷由実くらいで、たぶんニューミュージックって枠でくくれるような音楽。
店員は50代くらいだろうか、女性で、なんとなく水商売の遍歴がありそうな雰囲気が漂ってくる。髪はバサバサで典型的なおばさん体型をしているのだけれども、化粧と佇まいから昔は美人の部類に入ってたのだろうなと感じる。スピーカーから流れる歌を口ずさんでいる。
青春時代に固執してるのかもしれない。こういう、発展の見込みのない、気だるくて澱の底のような雰囲気は嫌いじゃないけど、そう考えると少しゾッとする。
俺の時代は、どう語られるのだろうかと考える。
同時代性とかにはてんで興味を示してこなかったけれども、今が永遠ではないことをこうやって見せつけられると、卑しく執着してしまう。