死と酩酊

酩酊したい時は死にたい時だ。

「酒と上手く付き合うのは、死と上手く付き合うのと同じことだ。」と、ある人が言っていた。
自分の経験と照らし合わせてみてそれは全く腑に落ちる話で、今いる状況から逃げ出したい、自分が今おかれている現実を否定したいという欲求は、そのまんま死への欲求へとつながるものだということは割と簡単に推測出来る。
その欲求に従うまんま飲み続ければ、運が悪ければ急性的な死を、運良く身体が持ちこたえれば慢性的な死を迎える。あるいは社会的な死を。

前後不覚の感覚は、あたかも天国に居るようで、その状態で見る朝日はそれは素晴らしいものだ。李白の詩が心に染みる。
そしてしばしの眠りについたあと、この世に再び直面するのを拒絶するかの様に、現実というものをそのまんま身体感覚に表現したかのような頭痛と吐き気と眩暈が襲って来る。
死は甘くて、生は痛い。



家から10分ほど歩いたところに割と大きな橋がかかっていて、その橋は下を大型のフェリーが通るためにかなりの高さをとっている。
そこから飛び降りる自殺者がチラホラ出るようなところで、そこから飛び降りた者は海底のヘドロにつかまって浮き上がることができないという噂を聞いたことがある。
その橋は私のジョギングコースで、夜にその橋の一番高いところから下を覗き込むと、漆黒の海が口を広げている。
飛び降りることを想像してみる。
柵を乗り越え、えいと柵を蹴り、股がウズウズするような自由落下が数秒続いたあと、脚から水面に突き刺さる。水面を見上げるが真っ暗で何も見えない。ヘドロに脚をとられ、真っ暗の中で次第に息苦しくなり、意識が遠のき、視界は闇。

ぞっとした。
死は甘いけど、真っ暗。それもぞっとするような。



俺の部屋は死んでいる。
散らかり、全く無秩序な状態だ。
散らかった部屋は、ある意味で居心地が良い。それは酩酊しながら人目も気にせずに床で大の字になって寝る時の感覚に似ている。
生とは、エントロピーの増大に抗うことだとさっき見たページに書いてあった。
乱雑さの増大に身を任せることで、底知れぬ安堵感を得ている自分に気がつく。

だが明後日に親が来るらしく、そうも言ってられない。部屋を片付けなければ。
親というのは、死ぬことを許さない。
今は親によって生きることを義務化されているので、かろうじて生きているだけ。
ただ、毎日を繰り返すだけの、無意味な生を生きているだけ。



生とは無意味であると思う。
やがては崩壊する一時だけの秩序を増大する乱雑さに抗って構築する義務を、それがなんの意味を持つのかわからないまま否応無しに課せられる。
その無意味さを超克できるだけの腑に落ちる何かが欲しい。
それは無意味さを直視することでしか得られないんだろうが。
恐らく痛覚を伴って得られるソレがあれば、死とも生とも上手く付き合っていける気がする。