生活

それは循環なのだと一人暮らし3年目にしてやっと気づいた。

ここじゃない何処か遠い所へ行きたくて、それで腰の落ち着かない3年間だった。
昨日の続きが今日で、という感覚が全くなかった。
今日は今日でしかなくて、万事行き当たりばったりな、そんな生き方だった。

糸のきれた凧のような生き方を心の何処かでは歓迎していて、今でも生活というウスノロに足を引っ張られたり道徳の名の下に、あるいは発展と進歩の名の下に抑圧される生き方はまっぴらごめんだが、その一方で地に足のついた生活を、今日が昨日の続きであるという生き方をしたいとも思っている。

大学の講義をサボったことが誇りで、とても楽しく思えるのはせいぜい20歳になるまでで、これからはそういう生き方は芸が無いものに、陳腐なものになるのだろう。


南木佳士の文章が好きで、最近読んでいる。彼の文章を読んでいると、死への肯定と、循環する日常というものに自然と思いを巡らせ始める。
意識高い系というのは、きっと、死を克服しようとするあまりに生じた神経症のようなものなのだと思う。死というものを直視することを避ければ、何処か不自然な生き方になるのだと思う。

循環する日常を生きようと思った。
多分まだ揺り戻しのようなものはあると思うけど、結局最後にはそういうところに落ち着くのだと思う。

明日こそは生まれ変わろうという願望が成就しないことはいい加減わかってきていて、結局はできる範囲の日常を繰り返していくしかない。今日出来なかったことが明日いきなりできるということは有り得ない。出来るのは身に染み付いた習慣の範囲内においてしかない。


ちゃんと腰を落ち着かせて生活の細かい所まで命を吹き込む、ヤスリで爪が光るようになるまで磨き上げるような、乾燥した日はちゃんと手にハンドクリームを塗るような、くすんだグラスを漂白剤につけて綺麗にするような、洗濯のときに洗剤だけじゃなくて柔軟剤も使うような、そんな生活をしたいと思った。