文化資本と習慣化

街に繰り出す。デパート前の広場ではギターをもった二人がミニライブをしていた。おしゃれなカフェ、おしゃれな人、ビジネス街、背筋を伸ばしながら早足で歩くサラリーマン。
ここには文化がある。と思った。数十分前に居た自分の部屋を思い出して見る。散乱した空き缶、たまった洗い物、淀んだ空気。惨状だ。人が毎日生活を維持するために行う営みを、とりわけ、もっと快適な、綺麗な、豊かな、清潔な、美しい、生活を目指すために毎日行われる営みとその蓄積を文化と呼ぶのならば、俺のアパートにはそれが無いのだろう。

家庭内の文化というものがあると思う。毎日の洗濯、掃除、食事、あるいはどのような衣服を購入するかの判断基準となるものや、方言や食事のマナーといった無意識のうちの振る舞いかた、などなど。
そういうのを身につけるのを怠ってきたなと思う。

友人にえらい綺麗好きの奴がいるが、部屋に行って関心した。まるで新居のような清潔さだった。
何が俺と違うのだろうか。

「人間の最大の武器は、信頼と習慣だ」と言っていた人が居たが、俺の習慣は、少なくとも家のことにおける習慣は、とても武器になりそうもないなと思う。

もう一人暮らしをしているので、親からがっつり手取り足取り習うというのはあまり期待出来ないだろう。せいぜいアドバイスを貰う程度だ。
自分で独学で身につけるしか無いのだろう。

ただ、問題になるのが、「そもそもそういう技術、スキルがあると知らない」問題だ。
自分1人で身につけるのだから、知識を網羅し俯瞰し導いてくれる人がいてくれたら助かるのだが、、、
独学で何かをやる時には、「そもそも自分がなにをわかっていないのかわかってない」って状況に陥る可能性があるのだが、、、まぁやるしか無いのだろう。

なんというか生きて行くこと全般にも同じことが言える気がする。経験豊富で、物事を俯瞰できて、導いてくれる大人の存在が必要であると思う。
俺の周りを考えてみると、信頼出来る大人ってあんまりいない気がする。これは別にまわりがしょうもない大人ばっかだってことじゃなくて、ただ俺が信頼しようとしないだけだ、というか、信頼できる大人を見つけようともしてこなかったし、大人とそういう関係を築こうともしてこなかった。
両親とは別に仲が悪いわけでもないが、全てあけっぴろげに何もかも自分について話できるかというとそんなことは無い。で、なにがそれを妨げてるのかというと、やはり両親である以上、俺にはなんらかの期待をしていて、それはつまり俺と両親の間には利害関係があって、その期待を押し付けられるのが嫌だったんだと思う。全てあけっぴろげに話をして、自分の悩みを相談して、親に誘導されるのが嫌だったのだと思う。

それでも一応、「この人になら話してもいいかな」と思える大人はいて、それはなんでかっていったら、それはその人の人格を信頼してるってのもそうなんだけど、何かを押し付けてくる心配が無い人だからだと思う。

なにかの習慣を身につけるのを為には、導いてくれる人の存在が必要であると思う。「これでいいんだ」と言ってくれる存在が必要なんだと思う。
それは別に大人である必要はなくて、内面化したなんらかの理想でもいいし、自分の信念であってもいいと思う。

物事を「やらされてる」って感覚があるうちはまだ自分の身にはついてなくて、それは外部の強制力がなくなったとたん毎日行うことをやめてしまう。
内面化することが大事なんだと思う。
その為には自分で試行錯誤することが、試行錯誤するためには日々毎日そのことについて考えたり、心の片隅におく必要があって、それが結果として内面化につながり習慣になるのだと思う。

自己啓発本やライフハック本にはまっていた時期があったが、読むだけでまったく身につかなかった。それは別にそういうのは役にたたない物だと言ってるのではなくて、自分の頭で考えたりして内面化し、自分の血肉(恥肉って変換されて面白かった)にして習慣に、毎日行うことが苦にならないレベルまで持っていくプロセスが必要なのだと思う。