楽しみと代償としての成長の苦痛の損得分岐点

最近ギターの弾き語りしてるんすよ。暇な時何と無く手にとってネットでコード譜拾って弾き遊んでるの。適当なバッキングパターンでジャーンジャーンってやるだけなんですが、コード単体だけでは別になんでもない"音"なんですが、それがいくつか並べられて奏でられると音楽になり何らかの感情なり情動なりを身体の中から引きずりだすじゃないですか。それって面白いなぁと。風立ちぬの、ひこうき雲を弾いてたんですが、サビの始まりの"空に憧れて"の部分とか、簡単な、初心者でも押さえられるコードの組み合わせなんですけども、聞いてるだけのときは気づかなかったんですが、実際に弾いてみて、ぐっとくるもんがあるなぁと。で、ギターおもろいって今日友達を家に呼んで一緒に飯食いながら話をしてて、お前(pinza)はどんくらい練習するんだ、俺(pinza)は気が向いた時にしかやらねえ、きつくなったり面倒くさくなったりしたら止めるって会話があったんですね。楽しくなけりゃ意味がないよって俺は言ったんですが、友達は、いや、お前それはちょいと違うだろう、みたいな顔をした(ような気がする)
ギターを上達するには、まぁ、ある程度は、苦痛にも耐えなきゃならないでしょう。指とかいたいし。たまに飽きるだろうし。別に私はプロを目指してるわけじゃないんで、それでいいんですが。いや、お前本当にそれでいいのか?と。思うに、自分の中でギターとか音楽の存在がデカくなった時に、練習についてまわるある程度の困難は、自分にとっては意味があるもんに変わるんじゃないかと。自分の中での、ギターなり、学問なり、スポーツなりの存在のデカさと、越えられる困難はある程度比例するんじゃないかと。こんなカンジで書くと熱血松岡修造みたいな、"お前なら出来る!!もっとテニスを愛するんだ!!"みたいな(実際に修造がこんなこと言ったことあるのかは知りませんが)、そんなんじゃなくて、やっぱ人を前進させるのって、"面白さ"に気付けるかどうかなんだと想うんですよ。ある程度その分野の面白さがわかってきて、もっとその先の面白さをしりたい。まだ知らないことを知りたい。そんな気持ちが人を前に進めるんじゃないかと思うんですよ。そう思えるようになったら、その人にとって試練は苦痛ではあっても、無意味な苦痛では無くなる筈です。