祈り

「あの、すこしお時間よろしいですか?」
「は?」

不意に声をかけられたのは、ガラス戸の鍵穴にカギをいれようと苦戦していたときで、築40年はあるであろう祖父母宅の鍵穴は旧式で、カギをはめ込むのにもコツがいるのだった。鍵穴にカギを半分突っ込んでぐりぐり廻し、うまくハマる角度を探り出す、そういう作業に没頭しているときに不意に声をかけられたのだからつい変な声が出てしまった。

後ろを振り向くと、緑色のベレー帽をかぶり白いブラウスとベレー帽と同じ色した厚手のスカートをつけた15,6くらいの少女がふたり、ふたりとも明るい色のしたフレームの眼鏡をかけていて、髪も同じようにロングの髪を後ろでひとつに束ねていて、似たような印象の顔つきをしていたが、片方はまるで外国人のような栗色の髪をしていた。ふたりとも色素が薄く、クラスの中ではおとなしめな、声の大きくて幅をきかす中心人物たちとは距離をおいて接するような、そういう類いの子に見えた。

ふたりとも顔に薄ら笑いを浮かべてこちらをうかがっていたが、その表情は立場の弱いものが誰かにおもねるときのそれに近く、口角は緊張しきっていて眼にも不安の色が窺えた。
栗色の髪のほうが、卑猥な視線の注がれてるのを感じとったのか、半歩ほど後ろに引き下がる。こちらも慌てて視線を逸らす。じりりと砂利のこすれる音がした。

「あのー、すいません」
声がしたのは少女たちのほうからではなく、遥か下方の、もっと手前のところからだった。
小柄な初老くらいの女性が胸もとのあたりから、卑屈な笑みを浮かべながら、覗き込むようにしてこちらをうかがっていた。人畜無害そうな、だけれどもそういう人間が往々にして身にまとってしまう、自分の意志が虚弱なことから引き寄せてしまう、ある種の図々しさ。そういうのが婦人の物腰から伝わってきた。

「いまお時間よろしいですか?」
「えぇ」
あぁ、宗教か、と合点がつく。学校の制服にしてはいやに生活感のない、少女らの制服はおそらく宗教団体の制服なのだろう。
とくに急ぎの用事はないのだし、せっかくだから、からかってやろう。

○○教ってご存知ですか、と婦人が説明する。
この世はいま悪魔のはびこる時代の真っ只中で天地創造した神様はこれを悲しみ救済の力と教え託した預言者をこの世に降臨させそれがその団体の教祖で彼女らの使命はこの世を救うためにその予言者の教えを広く知らしめることらしい。預言者の不思議な力をもってすれば病気の治癒や人間関係の改善も可能で、婦人は教祖のもとで修行を修めておりその不思議な力の一部を託されていて人々をその力で悪魔から救いだすために各地を周っているらしい。女の子たちは修行を開始する前の研修のようなものとして付き添いを命じられているという。

平日の昼下がりに、女の子たちは学校はどうしているのだろうと思っていると

「これが本部の所在地」
と名刺を差し出してきた。飛行機を使わないと行けないようなところだった。



婦人によると、修行さえすれば誰でもわりと簡単に力を行使できるらしい。怪我や病気を治したいのなら患部に手をかざして念を込めるだけでいいのだと。


あなたたちの神様は

ええ

こう、全知全能で、それこそ手をかざすだけで病気を治すような奇跡を起こす力をもっていて、世界の創造主なんですよね。

はい、そうです。

これは、あのー、キリスト教みたいですね。

あぁ、はい。似ていますね。

絶対的な存在の神がいて、で、預言者、キリスト教でいうとこのキリスト、イスラム教でいうところのムハンマドが、あなた達の教祖様で、三位一体説っていうんですか?そういうの。キリスト教にもありましたよね。

え?……えぇ、よくご存知ですねお詳しいんですか。




こういうのに無批判にハマる人は、高校倫理に載ってるような簡単な宗教の歴史とかさえ勉強しないのだろう。
そういう侮蔑の念を、彼はこの手の人間に対して持っていた。

どういう教えを説いているのだろう。もう少し詳しく知りたくなった彼は、正式な聖典などはないんですかと尋ねた。

「セ、セイテン?」
婦人は目をぱちくりさせて、くるりと彼に背中をむけて顎に手をやりながら「セ、イ、テ、ン……セ、イ、テ、ン…」とぶつぶつ呟きながら考え込み始めた。

○○とか、そうなんじゃないんですか、と少女のひとりが助け舟を出すと婦人は、あぁ!!と素っ頓狂な声を出すと同時にバネが弾けたみたいな動きで肩にかけていたバッグのなかに手を突っ込みセイテン、セイテンとまたぶつぶつ呟きながらゴソゴソやりはじめた。

「これ!!これね、○○(聞き取れず。漢字の多い厳つい名前)っていうんだけど、聖典っていったらこれかしらねー。」と小さな手帳くらいの大きさの本のようなものを半分バッグに入れたまま肩越しに見せてきた。経文のような文字が書かれてるのが見えたが、一定距離以上に近づけさせないようにしてこちらに見せてくるので、内容はよく見えなかった。手にとらせて下さいと頼もうかとも思ったが、婦人の振る舞いからそれが他人にベタベタ触らせることのできる類いのものではないことが察せられて、やめておくことにした。



「というわけで、私たちのはこういう教えなんだけど」
ようやく本題に入れるといった表情で婦人がこちらに向きなおす
「あなたのために、お祈り、させてもらえない?」

ちらりと少女たちを見る。相変わらずの曖昧な笑みでこちらを見ている。
すこし空を仰いでみる。白くもやのかかった空に飛行機雲が一筋、ちょうど真上を通り過ぎていくところだった。

「どこか病気とか、怪我とか、ないの?」
「ないです」
「じゃあ、とにかく貴方の幸せのために祈らせて」

わかりましたと承諾を告げるとすこし離れたところからこちらを見ていた少女らがこちらへと近づいてきて婦人と3人でぐるりと周りを囲んだ。
彼女らのいわく、祈りのあいだ、それを受ける側の人間のほうは祈りを受信するのに集中することが求められるため目をつぶらないといけないらしい。全身に祈りを受けるためにしゃがみ込む必要のあることも。
言われるままに目を閉じ、しゃがんで小さくなる。3人が何事か唱えはじめる。身体のあちらこちらに手をかざしている気配を感じ取る。



祈りを受けながら、彼は、祖父母のときから母に至るまで続く、宗教団体のことを思っていた。
彼の母の加入している宗教ーーー宗教とは名ばかりの、仰々しくて騒がしいだけの集団ーーーそのことを思い浮かべていた。
その宗教団体は戦後高度経済成長期のころ、都市部に大量に流入した農村からの労働者たちーーそういう人達は頼るところのない都市生活において往々にして孤立するーーそういう人達を吸収し肥大化してきた経歴をもつ。弱者救済を説き人間愛を唱え、あらゆる人間がその教義のもとに保護包括されることをその理念とする。孤立した都市生活者のなかにはそれが地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸のように見えた者もいたに違いない。その宗教の特異なのは、極めて干渉的かつ攻撃的な入信勧誘の姿勢だった。鎌倉幕府の頃のある僧の説を笠に着たその姿勢は多くの人々に疎まれたが、同時に信者の勧誘活動の大きな原動力ともなり、そのしつこさに根負けして入信した人々も少なくなかった。

10年前に他界した祖父が、どういった経緯で入信したのか、仕方なく入信したのか、それともある程度の熱意をもって入信したのか、今では本人に聞く由もないし、かといって身内の誰かを通して聞くのもなんとなくはばかれた。この宗教団体の話題は彼にとって口にするだけでも癪にさわるものだったからだ。

何故だか知らないがこの宗教は世襲制で、子が明確な拒絶の意志を示さない限り自動的に入信となる。
親戚でもないのに月に一度ほどの頻度で家に訪れ、馴れ馴れしく話しかけてくる婦人たちーー幼少のころから疑問に思っていたそれらの人々の素性が宗教団体の信者だと知ったのは、彼が中学にあがってからだった。家族の誰も読まないのにが毎日届けられる、地元紙とは別の新聞がその宗教団体のものであることもその時初めて知った。他の家庭も当然のようにそれをとっているものだと思っていた。

誰も読まないその新聞は、教祖の近ごろ発展途上国で行った偉業だとか偉大なる仲間たちの成し遂げた業績だとか、信仰の熱狂具合だとか、そういうのを毎日毎日、まるで焦燥と強迫観念に駆られたみたいに、いつも仰々しく大袈裟に伝えてきた。長い歴史をもつ伝統的な宗教ならば当然持っているはずの、宗教的謙虚さは、政治団体のプロパガンダ広報みたいなその宗教新聞からは微塵も感じなかった。



18のころ、団体の地方支部にいって数珠と経典を授かりにいこうと母に誘われたとき、烈火のごとく反発した。彼は、憂鬱の穴倉のなかでお互いの傷を舐め合い、依存しあい、そしてそんな生き方を恥ともせず開き直るような、そんな信者たちを心底軽蔑していた。そして何より彼が軽蔑したのは、自分の頭で考えることのないような人間だった。烏合の衆であることに開き直り、誰かの考えをそのまんまトコロテンのようにその口から垂れ流すような人間ーーーそういう人間を彼は忌み嫌った。

彼がその手の人間を極端に忌避するのは、実は彼自身が、根本のところではそのような人種に近い性根をもっていたからかもしれない。
世界と一対一で向き合うことを放棄し、教義のなかの、偽りの安寧に安住し、集団にあぐらをかく信者たちーーーそんな彼等に、彼は自分のなかの卑劣さを見出し、また、心の底であわよくばその仮構の安寧に引き篭もり、惰眠を貪りたいと願っている自分を見つけたのだ。






ある試験の前日、実家から彼の一人暮らしのアパートへと出向き、彼の身の回りの世話などをした母が、明日の試験のために経を唱えるなどと言いはじめた。
彼は、やめろっ!!、と思わず大きな声を出しかけたが、それは喉の奥にひっこんでしまった。
手を合わせる母の横顔が、あまりにも澄み切っていて、犯してはならない神聖なものを感じとったのだった。







もういいといわれて眼を開けると、真っ正面に夕陽が目に飛び込んできて、一瞬なにもみえなくなった。
とりあえず立ち上がろうとしていると、それじゃあ、これでと彼女らは言い残し、視界が回復する間もなくあっというまに去って行った。
いちめん橙色の光、ひとり、ガラス戸。
しばらく夕陽をぼーっと見ていた。定規で引いたみたいだった飛行機雲が、水に垂らした白の絵の具みたいにその境界線をはるか上空の気流に溶かしていった。





鍵穴にカギを差し込みーー今度は一発で入ったーー少し重みのあるガラス戸を横に滑らせ、中にはいり、ピシャリと戸をしめ、鍵を閉める。

誰もいない静寂のなか、途端に憤怒の念がめきめき沸き起こり、体を支配した。

「ふざけるなよ。」

鍵を畳に叩きつけ、勢いのわりに情けない音が畳から発せられた。
ふざけるなよ
靴を脱ぎすて土間に上がり込みながらもう一度呟き、今度は台所の、フライパンを手にとり、ハンマーを振り下ろすみたいに思い切りフローリングの床に叩きつけた。次は鈍く、大きな音がした。フローリングがへこんだ。

憑き物が落ちたように近くの食卓の椅子になだれ込み、テーブルに突っ伏すようにして頭を抱え込んだ。沸騰したワインのような血が頭に上り、こめかみが締め付けられたようにひどく痛んでいた。