半径5mの世界を語るということ。

身の回りの事象から距離をとり、それについて言語化することは、周りに流されることを予防する点で有効だと思う。
理屈っぽい人間は、身の回りの事象と自分を一体化することの出来ない、あるいは意図的にしない人間なのだと思う。常に一定の距離を保たざるを得ない。

先日あるブロガーさんが「血と汗にまみれたような、そんな文章が読みたい」と言っていて、俺もそれに全面的に同意なんだけれども、よくよく考えてみれば俺はいまいちそういう文章が書けていなかった。世界と裸一貫で真正面から相対し、自分の心中を曝け出す行為はリスクが高いし、怖い行為だからだ。世界に対して「俺はこの世界がこう見えるよ」と表明することは、「いやそう見えるお前はおかしい」「そう見えるなんてお前はキチガイじゃないのか」とか反論される危険ともワンセットで、反論が自らの自我同一性を崩壊することもあり得る。そんなことするよりかは世界と同一化したほうが心穏やかに、健やかに生きていけるからだ。

今はだいぶアクが抜けたけど、俺はもともと理屈っぽいところがある人間らしくて、酒に酔うとひたすら相手が聞いていようがいまいが理屈っぽい自論を展開する父からそこんとこは遺伝してるんだろうなと思う。

もともとは、幼いころは、かなり理屈っぽかった。
俺は中学は私立に進学して、地元を離れたんだけども、それはヤンキー的な人間が幅を効かせる地元の公立中学に進めば俺は生きていけないだろうと思ったからだ。理屈っぽい自分にはヤンキー的な価値観が優位に立つ所は居心地が悪かった。ヤンキー的な価値観というか、スクールカースト上位者の「俺らってイケてるよな!」ってノリには馴染めないというか馴染めないどころかいちいち絡んで行ってイチャモンつけるような人間だった。我ながらめちゃくちゃウザい。
そういう、多数派の、力を持った人達に合わせれば、生きて行くのは楽になるのに、そういう考えは持っていなかった。

ただ、中学3年の時に入った寮でイジメにあい、ちょっと処世術についても考え始めた方がいいんじゃねぇかなあと考え始めた。ダイエットだの脱オタファッションだの、そういうことを進めて行く内に、そういう理屈っぽいとこも意図的に封印した覚えがある。世界について語る言葉を自ら自分から剥奪した。世界と一体化することを自分に課した。
結果生きやすくはなった。
理屈っぽい奴は嫌われる。世界と自分を一体化しない奴は、その世界に住む人間から疎まれる。

イジメにあい、とにかく世界に迎合し一体化することに専念するようになってから、勉強をしなくなった。勉強をすることは自分にとって、成績を誇示して己の存在を認めさせることもそうだが、文系の勉強は特に、世界と対峙し、世界を言語化して暴き出す役割も持っていたからだ。だから勉強するということは、自分にとって、生きづらさを助長する一因に当時はなっていたのだと思う。
アホになれば好かれると思った。理屈っぽさを漂白すれば生きやすくなるのだと思った。

脱オタし、一般人に近づくことを「映画のアルマゲドンで感動出来るような感性」と表現した人がいて、俺もそういう感性を努力によってある程度は獲得出来たのだと思う。
ただ、どうも漂白し切れない。し切りたくない。
世界と同一化しきってしまおうと思えば恐らくそれは、少なくとも同一しきったフリをして振る舞うのは、それ程難しくない。
でも、それでいいのか。

居酒屋ポエムのような世界観に浸り自己と外部とが溶け合うような、そんな生き方をすれば楽ではあると思う。嫌われることもない。
だけれども、血を吐き脂汗を滲み出しながら「俺には世界がこう見えたんだよ!!」と叫ぶ文章を書く人に、俺は憧れている。こじらせマンだとか揶揄されるような、そんな人がちょっと羨ましいとも思う。本人からすれば「じゃあ代わりにお前やれよ」って話なんだと思うけど。

それは、キツくて、しんどい営みだと思う。

血と汗が滲むような文章ってのは、そういう、世界と一体化することができない人間が書けるモノなのだと思う。
そういう人に憧れを抱いているが、踏ん切りがつかないでもいる。