ナルシシズム型の努力と攻撃性を含む上昇志向

某飲食店甲子園を見ていて思い出したのが、小学校の時の合唱大会だった。やりたくもねぇのに担任とクラスの中心人物がやたら張り切りやがる。俺は早く家に帰ってダラダラしたかった。

だいたい歌を歌うのになんで感動だとかそういうのが必要になるんだ。自分に酔いたいだけじゃないのか。身勝手なストーリーを押し付けてくる担任にうんざりしていた。教室は、甘ったるい自己愛の匂いが鼻につく空間だった。

感動なんてもんを団体で共有したいって感覚がよくわからない。他者の涙を見るのはそれが感動であれ悲しみであれ結構つらい。昔から、そういう、大勢で感極まって泣く場面が苦手だった。怖いし、茶化したくなる。得体のしれない力に突き動かされ自分が自分でなくなる気がする。皆で感極まって泣いている自分は本当に感動しているのか。ただ流されているだけなのではないか。そういう疑問を抱く余地すら与えない大きな流れやチカラというものは怖い。思考が追いつく前に前に強制的に行動を促されるのは怖い。

何故感動が必要になるのかと言えば、感動という強烈な興奮剤が無ければ行動を起こせないからだろう。さらにその"感動"が皆と共有されていなければ怖いのだろう。自分の"感動"が皆と共有されることで、違うか、逆か、誰が用意したのかわからないがとにかく世間一般に広く流布している"感動"のストーリーに自分を合わせることで安心しているのだろう。

「自分の行動は適切か?」「自分の思考は適切か?」そのような思考が根底にあるように見える。
某甲子園の動画をYouTubeで見てて気付いたのが、全員おしなべてなんらかの個人的な悲劇をその絶叫の土台としていることだった。
彼らをくくる共通項はそういった個人的な悲劇なのだと思う。
だから「夢は一人で見るものではなく、皆で見るものなんだ」というセリフが出てくるのだと思う。
個人的な悲劇を皆で共有することでそれを乗り越えようとし、そこに希望を見出しているのだろう。
この時の「夢」というワードは、土台にある悲劇の裏返しのようなもんなんだと思う。

だから、あの甲子園にどことなく攻撃性を感じてしまうのだと思う。
彼らの「夢」はそれ単体で存在するものではなく、悲劇とワンセットであり、コインの表裏のようなものなのだと思う。

悲劇を乗り越えるために、「夢」という興奮剤が必要だったのだ。

関連動画で、飲食店の朝礼の様子も見たが、やたら叫ぶなぁと思った。
叫ぶことで脳を興奮させているのだろう。
しかし、何といっているか聞き取れないが、多分、言ってる内容はそこまで重要ではないのだと思う。この手の所謂「夢」とか「目標」は、「自分の」とつくにも関わらず、内容は皆似たようなもので、金太郎飴みたいだ。だから、何を言ってるのかわからなくてもオッケーなんだと思う。とにかく、興奮すればそれで良い。

タチが悪いのは、その「夢」で客も喜ぶと思ってる所だ。
自らを奮い立たせるための、言ってしまえば自分勝手な理想とそれに基づく世界観を客という他者にも押し付ける所だ。
それは客にとってはなんの関係もない話だ。


だから、自己満足に浸りたいがために合唱という手段を持ち出し「絆」や「連帯感」といった理念を無遠慮に教室に持ち込んだ担任に感じた自己愛とそれに対する反発心と同じモノを彼らのような自称「熱い」「ポジティブ」な人達に感じるのだと思う。

「人を喜ばせて自分も嬉しくなる」というのは、別に崇高なことではない。
これ見よがしに、声高に、「人を喜ばせたい」と言うのは、なんか違うと思う。それは自分勝手だと思う。本当は、自分自身を喜ばせたいのだと思う。別にそれは構わないけど、理念を盾にし、善意を押し付け、そのことに無自覚でいるのは迷惑だと感じる。その押し付けがましさに攻撃性を感じるのだと思う。

淡々と、黙ってやれるようにするのが一番だと俺は思うよ。
綺麗で口当たりの良い理念を真に受けて、それ一つだけをもってして行動のモチベーションにするのはマズイと思うよ。独りよがりになる可能性があるから。
響きが綺麗で耳に心地よい理念は人を身勝手にしたり、問題点に気づきにくくするのだと思う。