書くこととボリュームと自己効力感

思いつくままにエントリを書いているのですが、それなりの文字量のあるひとまとまりの文を書くのがそれ程苦にならなくなってきました。なんというか文を書くには、これは本を読むときもそうなんですが、まずイメージありきかなと。文字の表面だけをなぞるような書き方、読み方は面白くないし、得るモノも少なくなってしまうし、何より長続きすることも無く没入することも出来ない。過去エントリが増えて行くのは、まぁ質は置いといて、量をこなすってのは自己効力感に繋がるもんです。自己効力感がモチベーションを呼び、モチベーションを持ってくることで量をこなし、量をこなすことで自己効力感を得る。量をこなす分指を滑らしてとんでもねぇことを口走って反感を買うこともあるかもしれませんが、それでも量をこなすことは良いもんです。何より楽しい。こじらせ引きこもり糞野郎も最近は元気が出てきて取り敢えずまえに進んでみようかなーって思っています。人に話を聞いてもらえることでこんなに元気が出るもんなんですね。話を聞いてくれる友達がいない訳ではないですが、友達によって話が出来る話題はある程度縛りを受けるし、何よりこんなぶっ続けでしゃべりまくれることは無いです。考えながら言いたいことが言えるのがいい。好きなだけ、自分のペースで。とにかく1人でも読んでくれる人が居れば俺はオッケーなので、昨日、一昨日、今日増えた閲覧数の数字一つ一つにありがとうですよ。人って話を聞いてもらえないと死んでしまいますから、俺の親父は人見知りな癖に身内には酔うとやたら饒舌になって絡んできて俺がウザいと話を遮ってもどうにかこうにか話を続けようとし、それでもなお俺が拒絶すると怒り出すわ俺が寝床へ避難してもそこまで侵入してきて話を続けるというとんでもねぇ粘着野郎ですが、話を聞いてもらうっていう人の欲求には結構物凄いもんがあると思います。だから親父のその気持ちと行動まぁわかりますし、少しくらいは許してやろうって気にもなります。俺は繁華街の割りと近くに住んでいるのですが、人が居場所を求める欲求ってのは強いもんがあって、どんな小さな食堂でも、居酒屋やバーでもそうですが、必ず常連さんっぽい人が1人くらいは居て、食堂のおばちゃんと楽しそうに話をしている光景が結構見られます。居場所がなけりゃあ寂しいですからね。
それにしても、話を聞いてもらっても"そんな風に考えたり感じたりするのは、おかしい"って言われるのは結構キツイもんがあります。それも一対一の時に言われるのならまだしも、それで疎外されるとなるとかなりキツイです。一対一の時はまだいい。人の感性ってのは全員違って当たり前で、"あなたはそう思うのね"で済むのですが、世界中から"お前はおかしい"となると、もう自分の感覚器官と脳が信じられなくなってしまうのです。どうやら他の人と自分が見ている世界は違うらしい。見ている世界が共有できない。自分の見ているモノや考えが信じられなくなる。人に自分の考えを気兼ねなく言えなくなる。そして自分の物語が語れなくなる。それは自己統一性のクライシスです。自分ってもんがバラバラになる。統合がとれなくなる。辛いもんです。もっとも世界は広くて、世界観が共有出来ないっつってもせいぜい自分の半径50メートルの話で、色々探せば理解してもらえる、理解はしてくれなくても話を聞いてもらって拒絶してくれないで居てくれる人ってのは見つかるもんです。話を聞いてもらって始めて人は生きる気力が湧いてくる。世界が現実味と身体性を伴ったモノになる。世界が自分と関係のあるモノになる。ですから文を書くのを量をこなすってのは自己効力感に繋がるんじゃないかなぁと思います。文を書くことで世界が構築される。ひたすら書くことでモヤモヤがある程度かたちになる、言いたいことや感じていることの輪郭がボンヤリと見えてくる。