世界に剥き出しで晒されている感覚 それと美とか

私の存在っていうのは何らかの存在の犠牲の上に成り立っているのであって、その事実から逃れることは出来ない、と焼き鳥を食いながら犠牲になった鶏を引き合いに出して、生きることとは誰かの犠牲のうえに成り立つことなのだとカルピスサワーを飲んでいる兄に語ったら「面倒くせぇ、、、」ってまじで面倒臭そうに言われた。我ながら面倒臭い弟であることであるよ。しかしこの問題は結構普通に生活していてもぶち当たるもんで、受験とか俺の着ている服はアフリカあたりで安い賃金で生産されてるとかチョコレートだとか。今まさに俺だって食われる可能性があるのだ。隙間風が寒い部屋の中でそう考える時、世界に剥き出しで放り出されていることに気がつく。まぁ別に実際食われて命落とすまではいかなくてもさ、もしかしたらいつかホームレスになるかもしれないみたいな可能性は誰にだってあるじゃん?ないかな?誰にでもってことは無いだろうけどさ。そういう「外側」に放り出されることは規模の大なり小なりはあるとしても、それは怖いし寒いことだ。まぁでも個人的にはそういう、生きるか死ぬか(比喩として)っていう境遇に晒される時の、あの寒々しくも"生きる"ってことが炙り出される感覚と世界に一対一で対峙する時の心象風景は嫌いじゃない。でもずっと世界に対峙してたら死ぬのでたまには癒しが必要で、美しいモノを愛でる必要がある。ブラックジャックによろしくで、沈む夕日を見て「生きてるって、綺麗ね」っていうシーンがあるのですが、あれはかなり説得力があると思うのです。生命を燃焼させることに美を見つけられなければ生きていけない。というかどんなに人間関係でドロドロしたものを見せつけられたりして生きることにウンザリしたりしたとしても、夕陽が綺麗だから死なない。取り敢えず生きてみる。この世は美しいらしい、例え自分の存在が誰かの犠牲の上になりたっているとしても。この世は綺麗だから死なない。