こじらせ男子 自意識ぼっき

チラ裏のようなエントリを書き、"うわぁ、こりゃひでぇや。他人に伝わるかな"と心配し、暇さえあれば神経質にはてなブログのアプリを開き閲覧数が1でも増えたら安心するわけですが、誰かが1人でも読んでくれれば、俺の脳内で生じたことが脳内から飛び出し、誰かに観測され、世界に出現し存在することになるわけで、それは、嬉しい、こと、です。もともとノートに日記を書いていたこともあるのですが、なんか最近書かなくなりました。それでブログを始めたんですが、やはり"読まれる"っていうのは自分の考えたことを書き起こす上で結構デカイモチベーションになっています。そもそもノートに日記書いていた時は読者を想定していなかったので、なんか延々と心理描写が続くだけだったんですよね、、、今読み返してみると"あぁ、、、なんかコイツ悩んでる。のたうちまわってる"ってのはそれはもうノートの上で狂ったように踊っている文字からムンムンと伝わっているわけですが、何が言いたいのか、お前は何がしたいんだ、何をどう考えているのか、っていうのがちっとも伝わってこない。でブログに書くとある程度は人に伝わるようにする必要があるので、そこそこ落ち着いて思考を整理できる。じゃあ仮想読者でっちあげてまたノートに日記かきゃあいいじゃねぇかよってなるんですが、何故かまた紙のノートで延々と孤独に自分の思いを綴ることに戻る気力は湧かないです。なんかまた同じところをグルグル周る愚行を繰り返しそうな気がする。
人間を構成する細胞だか分子だかは七年半で全て入れ替わるとか入れ替わらないとかでじゃあ七年半以上昔の自分と今の自分が違う人間かっていうともちろんそうではなくて、七年半以上昔に自分が何を考え感じていたかってのが今でも思い出せることがその証拠になるのですが、その記憶ってのは歴史、すなわち物語であってそこには恣意が入り込むことは避けられないのですが、とにかく人間が生きていくにはどんな形であれ、物語が必要であり、"俺には世界がこう見えたんだよっ!!"ってのを語り世界観を構築する必要があるわけです。で、誰かが聞いてくれなければその"世界観"は、世界に存在しないことになるので、人は誰かに話を聞いて欲しいのだと思います。ブログの面白いところは、自分の世界観を表明し、聞いてもらえるだけではなく、他の人の世界観も覗くことができる所だと思います。私はスターをつけてくれた人や読者登録をしてくれた人のブログを覗くことが好きなんですが、それはその人から見た世界とその人の物語を見るのが面白いからです。facebookを覗いても最近面白く無いのですが、それは投稿が人々の関心の最大公約数であるところの"ネコと飯"で占められているからではないかと。ソルティドッグの写真と「今日もスナック○○で晩酌!!^_^  」ってだけの投稿から普段その人が見ている世界に想いを巡らすのは困難を極めます。ブログは匿名であり、いざとなりゃあアカウント自殺すれば済む話なので、なかなかリアルでは表明できないことも書ける。それは静かな独白であったり、それこそ血を吐きながらの世界観絶叫表明大会であったりするわけですが、そこには確かにその人の生と物語があります。じゃあLINEとか閉じたとこでの愚痴大会でもいいじゃねえかよってなるんですが、やっぱ自分の頭が世界に開かれてるってのが素晴らしいとこだと思うんですよ。あとLINEと違って馴れ合いクネクネにならなくて済むしひたすらぶっ続けで語れるところがいい。他の人のブログを覗きこそしますが、別に"覗くだけ"でもオッケーなんで、それがいい。その距離感が。まぁ世界に広がってるってことはそれこそワールドワイド赤っ恥さらし大会にもなりかねないし、書きたいことを好きなだけ書くってのは誰かを傷つける可能性もリミッターが外れた話題の分だけ増えるし何かに言及すれば誰かが「そんな風に思うなんておかしい!!俺からはこう見えている」って世界観の衝突が起きる可能性だって出て来るんですが、それでもそこで語るだけの魅力があって、語ることで新たな視点を獲得し世界を切り開けるかもしれないし、"俺はこう思うし、世界がこう見えたんだよ!!"と、必死に叫ぶ誰に届くかわからないその叫びが100日千1,000日10,000万日経った後でそれを読んでくれた誰かの日常の中でふと思い出されその人の問題を解決するとまではいかなくてもなんらかの糧になるのかもしれないのです。くぅ〜、疲れました!!のコピペが流行りましたが私はまさしくあのようなことをしているわけです。渾身の作品がネットで晒され一生の恥になるかもしれない、もう立ち直れなくなるかもしれない。そもそもあのコピペが笑われるところの理由書き手の自意識過剰っぷりと読みての冷めた視点のギャップから来る滑稽さですが、、、俺もそんなカンジですかね、、、すげー必死にシャドーボクシングしてるけど、周りから見るとお前は一体何と戦ってるんだ、みたいな。そういや昨日友人と話ししてて、居酒屋で政治談義語ってるおじさん達はだいたい水掛け論に発展して泥沼の戦いを繰り広げているけどあれは政治と自分の物語を同一視してるからだよねみたいな話をしたんですが、それでも自分の考えをおおっぴらに表明するのは大事なんじゃないかなぁってことに取り敢えずはなりました。ああいう談義はホント何も産まなくて出来れば避けたいなあと思うんですが、あれ、今俺が書いてるコレも似たようなもんじゃね、みたいな。まぁ聴き手をコントロールしようとしてるかしてないかの違いがあるかと思いますが。相手の世界観をねじ曲げようとしてるかしてないか。

語る人ってのはだいたいウザくて、何がウザいかっていうとその脂汗にまみれた思考から生じる熱気と圧力が暑苦しくて鬱陶しいわけで、だから私はここ数年は漂白された爽やか純粋涼しい脳味噌BOYを目指していたのですが、やはり何か壁にぶち当たると脳圧バリバリに上げて何かを考えマーライオンの様に吐き出し続けないと私は前に進む力が出ない様です。さもなくば「脳汁が枯れて、力が出ない、、、、」ってなります。考えて考えて脳汁の出るままに身をまかせて壁にぶち当たるのも気にせずに猛進して問題解決に没入した挙句、脳味噌ともども燃え尽きて灰になり全てか虚しくなったり世界観が相対化され足元からこの世がガラガラと音を立てて崩れ去ったりして毎回毎回死にたくなるのが俺の悪い癖なんですがそれ以外に壁を乗り越え成長する術を私は知らない。