悪意

同級生が2chで晒されていた。
2chには、覗き見根性な発言や、「余計なお世話だよ!」とつい思ってしまうような下世話な発言、無知からくる無神経な発言など、リアルの知り合いから見るとモヤモヤした気分になるものが書き込まれていた。見ているだけで心臓に紙ヤスリを擦り付けられたようなザラついた気分になる。別に直接2ちゃんねらーの餌食になったわけではないただの知り合いである私ですらこうなのだ。本人は紙ヤスリどころの話じゃないだろう。目の荒い鉄ヤスリでガリガリ削り取られてるくらいの感覚だったと思う。多分。

じゃあ2chにスレを立てて反論すれば解決するのかっていうと、しないだろう。2ちゃんねらーに対して反論しても意味がない。同級生を好奇の目で見た彼等は、我々が無意識に持つ、嫉妬、羨望、弱者に対する優越感、野次馬根性、自分と異なる者を排除する心の働きなど、ある感情の集まりだと考えるのが妥当ではないかと思った。彼等を分解していっても、誰か1人の個人に分解出来るわけではない。確かにキーボードを打ち掲示板に書き込んでいるのは、具体的な身体や社会的属性を持ち、それなりの個人的な歴史を積んできた、ある1人の人間なのだけれども、その人にキーボードを打たせているのはその人自身では無いのではないか。例えば2chの書き込みを苦にしたその同級生が自殺をしたとして、私が2chに書き込みをした誰かを特定し、その人の家に押しかけ、「何故こんなことを書き込んだ!!」とその人を責めたとしても、その人はぽかんとした表情で無責任に「まさかこんなことになるとは思わなかった。」と言うだろう。彼等は恐らく1人の個人として書き込んでいるわけではない。人間が、いつの時代でも、誰であっても、普遍的にもっている悪意に従って攻撃しているだけなのではないか。だから、そんなのに反論するのは無意味だ。"彼等"とは、個人の集まりでは無い。幽霊のようなものだ。そんなのに反論するのは煙とボクシングするようなもんだ。



最近、知らない間に自分が他の人を傷つけていたことを思い知らされたことがあった。傷つけている間は、本当に無意識だ。無邪気で残酷だ。



以前、近所の小学校の横を通った時、校庭に置いてある遊具の近くで、1、2年生くらいの小学生の男女が5、6名、同い年と思われる1人の男の子を取り囲み囃し立てていた。小さい子は、無邪気で残酷だなとその時は思った。
自分自身が小学生だった時を考えると、やはり自分もそんな残酷さを持っていたし、誰かに傷つけられることも多々あった。
大人になり、そういう残酷さはまったく卒業したのだ、私は子供と違って他者への共感力や思いやりをもっているのだと思っていた。



違った。
まだ、私の中に、いる。
他者への共感力を欠き、その無邪気な笑顔が無知からくるものだとは知らず、それでどれだけ人が傷つくのかも知らない自分が。

そんな自分が完全に消えて無くなることは、いくら成長したって、この先、多分、無い。
私は、気付かない内に誰かを傷つけ、似たような傷をつけられることを繰り返す。それは多分、宿命だ。