義務ではない人生

空き缶の散乱した部屋。二週間は放置してあるコンビニ弁当の空き容器からは微かに匂いが漂っている。布団はもう二ヶ月は干していない。枕からは生臭い匂いがする。


カミュの、シーシュポスの神話の話が、頭によぎった。神の怒りをかったシーシュポスは、巨大な岩を山の山頂まで運ばされる試練を負う。しかしその岩は、山頂に到達点する直前に毎回滑り落ちてしまい、どうしても山頂まで運ぶことが出来ない。シーシュポスは、岩を山頂直前まで運ぶが岩が転がり落ちるのでまた麓まで戻り、山頂まで運び、また麓に戻り、、、と永遠に岩を運び続けなければならない。我々の人生も、それと同じものだと、我々の人生は、全く意味のないものだと、人生や世界はなんの意味も論理も持たず偶然の存在だと、我々の人生は全くの無意味で、無益だが、その不条理な人生を直視し、人生になんの意味を見出さずに逞しく生きていく所に、人間の英雄性があるのだと、人生になんの意味も無いことを知りながら人生を直視し、耐え抜くことで、運命に操られたり、反抗する次元を超えられるのだとカミュは言ったらしい。

私は、大義名分が無ければ、動くことの出来ない人種だ。世間から、人生の意味を与えられることを欲していた。意味のない自分の存在に耐えることが出来なかった。
だから、自分の言葉で何かを語ることを避けていた。自分の言葉で何かを語れば、その言葉には必ず、自分の内面が乗り移り、同時に、自分の内面が照らされ、浮き彫りになる。それが怖かった。他人から受け入れられないのではないのかと、自分が取るに足りない人物であることが吐露するのではないかと、怖かった。あり合わせの、漂白された人畜無害の言葉でしか自分を語れなかった。


意味のない人生を、耐え抜き、じっと見つめ、生きていけるか。ただ、生きることに喜びを見出せるか。そこに"べき"はない。"べき"を言ってくれる人は誰もいない。

だれも私に生きてくれなんて頼んでやいない。生きることは義務ではない。

それでも、生きていけるか。